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「やあ、君か」
小谷はしばらく放つていた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
「あら!いらつしやいませ。ようこそ。――ほんとうに、よくまあ!」
若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つているも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。
「ふうん、潰れるだらうな」
「へえ。ちよつとばかし――」
「いかんと云ふわけもあるまいさ」
「まづい、まづい。酒がまづくなる」
が、その時、彼はすぐ傍でさつきから盛子がひろげたり畳んだりしている大きな紅い紙の袋みたいなものに目をとめた。
例の伯父はもう大分前から房一の気を引いてみてはいたのだが、遠縁にあたる退職官吏の娘で盛子といふのを房一の妻として撰んで待ち設けていた。
「や、失礼、おさきに」
「かりに、おれが真正面から反抗的に出て、それがために住みにくくなつたとしても、同じことだ」
房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられていた。